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影響力ランキング1位の投資家・村田祐介さんがVCを目指した理由

2018-07-26
STARTUPS JOURNAL編集部
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STARTUPS JOURNAL編集部
影響力ランキング1位のベンチャーキャピタリスト・村田祐介が起業家からVCを目指した理由

「Midas List」をご存じだろうか。

米Forbes誌が毎年発表している「最も影響力のあるベンチャーキャピタリスト」のランキングだ。

その日本版として2017年にForbes Japanが発表した「日本版Midas List」でトップに選ばれたベンチャーキャピタリストが、インキュベイトファンド代表パートナーの村田祐介氏だ。

村田氏はネットバブル真っ最中の1999年に学生起業。当時「金融ビッグバン」といわれた規制緩和の波が来て、大きな事業機会があるかに見えた。ところが、その規制緩和自体が政治的理由で途絶えたことで、村田氏の金融システム開発のベンチャーは頓挫。再起をかけてVCの門を叩き、投資家としての道を歩み始める。

起業家、そして投資家という両サイドから日本のスタートアップ業界を20年近くに渡って見てきた村田氏に、起業の困難と喜び、そして日本のスタートアップ業界が面する課題について話を聞いた。

起業家、そして投資家という両サイドから日本のスタートアップ業界を20年近くに渡って見てきた村田氏に、起業の困難と喜び、そして日本のスタートアップ業界が面する課題について話を聞いた。

(聞き手はITジャーナリスト・元TechCrunch Japan編集長 西村賢)

両親とも東京証券取引所勤務という家庭に生まれて

西村村田さんは若くして起業されましたが、子どもの頃から社長になりたいというような願望があったんですか?村田:いえ、そういう願望は持ってなかったですね。ただ、ちょっと変わった家で育ちました。父親が東京証券取引所で上場審査をやっていて、母親も東証の職員、祖父も東証の職員だったんです。西村:えええっ……、ちょっと待ってください。投資家になるべき環境というか、資本主義の権化みたいな家に生まれたということですか(笑)

村田:もう1人の祖父は普通の本屋の社長で自営業だったんですけど、その祖父の親友に森永貞一郎という人がいました。東証の元理事長で、後に日銀総裁になった人です。そういう人がすごく近い関係にいた、というのもあります。父親はずっと東証にいて、最後は東証から出て、ほふり(証券保管振替機構)の立ち上げに行き、最終的にほふりの代表取締役専務の肩書きになるまでやっていました。そんなこともあって小学生のころから会社が上場してエクイティで資金調達して会社が成長するっていうのを見ていた感じです。

西村:すみません、なんか世の中、すごく不公平な気がしてきました(笑)

村田:当時はベンチャーキャピタルという存在自体がなかったので、資金調達をするというと間接金融の世界でした。当時はベンチャーとかスタートアップという言葉もありませんでした。だから、いわゆる中小企業ですね。そういう企業が一気に立ち上がって成長していくのがいかに面白いかという話を、小学生のときに父親から良く聞いていました。

西村:町工場から始まって大企業に成長した企業がたくさんあるのが戦後日本の経済成長の歴史ですよね。

村田:父親の上場審査時代に上場した会社から、例えば東京エレクトロンのように日本を代表する会社がたくさん生まれました。そんな環境にいたので、自分の父親は何か特殊な仕事をやっている人なんだろうなと考えていました。いつも兄とは「うちの親父の仕事って変だよね」とか「面白そうなことやってるよね」と話をすることも多かったですね。その結果なのか、いま兄は新日本監査法人にいるんですけどね。

西村:ほかの子どもたちと話が通じなかったのでは(笑)

■村田祐介(むらた・ゆうすけ) —インキュベイトファンド株式会社 General Partner 1999 年にエンタープライズソフトベンダーに創業参画し金融機関向けオンラインサービス・ソフトウェアの開発業務に従事。2003 年エヌ・アイ・エフベンチャーズ株式会社(現:大和企業投資株式会社)入社。主にネット・モバイル関連企業の投資育成業務及びファンド組成管理業務に従事。2009 年より同社投資第6 グループのグループマネージャーに就任し約70 億円のポートフォリオを担当。 2010 年インキュベイトファンド設立、代表パートナー就任。メディア・ゲーム関連領域を中心とした投資・インキュベーション活動を行うほか、ファンドマネジメント業務を主幹。
村田祐介(むらた・ゆうすけ)—インキュベイトファンド株式会社 General Partner1999 年にエンタープライズソフトベンダーに創業参画し金融機関向けオンラインサービス・ソフトウェアの開発業務に従事。2003 年エヌ・アイ・エフベンチャーズ株式会社(現:大和企業投資株式会社)入社。主にネット・モバイル関連企業の投資育成業務及びファンド組成管理業務に従事。2009 年より同社投資第6 グループのグループマネージャーに就任し約70 億円のポートフォリオを担当。2010 年インキュベイトファンド設立、代表パートナー就任。メディア・ゲーム関連領域を中心とした投資・インキュベーション活動を行うほか、ファンドマネジメント業務を主幹。

孫さんが3000万円かけてジェットで渋谷に飛んできたバブル期

西村:でも、東証のような資本市場を支援・運営する側じゃなく、自ら起業をされたのはどういう経緯なのですか?

村田:大学生になったのが1999年なんですが、時まさにネットバブルの時代。当時ビットバレーで活躍されていた先輩方に会いに行ったりしていました。ソフトバンクの孫さんが、渋谷のベルファーレにダボス会議からプライベートジェットで飛んで来て、「3000万円かけてこの場に来ました!」と言ったら会場がウォーって盛り上がったりしてね。そんな日があったんですよ。それの会場設営をやったりしていました。そのコミュニティーの熱量に、すごく面白さを感じました。2000年は楽天が上場して間もない頃です。とんでもない時価総額が付いていて、若かりし三木谷さんが「ヤマト運輸を買収したい」というようなことをビジネス誌で言ってたりしていて、「何なんだろう……、これは」と衝撃を受けていました。

西村:ECビジネスでロジスティクスを手に入れるのは合理的ですが、楽天とヤマトの歴史や規模感からしたら、すごくダイナミックな話ですよね。

村田:19歳とか20歳だったので、「そんなことができるのか!」と心が震えるものがあったんです。当時、将来どういう仕事をしたいのかを考えたときにスタートアップが成長して行くところに関わりたいと思っていました。父親にとても憧れを持っていたということもあって、資本市場の入り口の部分に何らかの形で関わりたいと思っていたんです。インベストメントバンカーとか、それこそ東証だったりとか、アンダーライティング(証券業の一種)みたいな仕事に興味があったんです。だけど孫さんや三木谷さんをはじめ、コミュニティーの熱気をみて、「これは自分でやった方が面白いんじゃないか」と思い始めたのがスタートです。

「金融 x インターネット」で自ら起業

「金融 x インターネット」で自ら起業

西村:とはいえ、いきなり起業したわけではないんですよね?

村田:はい、当時インターンシップという仕組みがようやく動き始めた時期でしたけど、何社かスタートアップでお世話になりました。それで父親の仕事を追いかけてた部分もあったのか、金融の仕組みそのものに興味があったので「金融xインターネット」で何か仕掛けられないかなと考えて、ソフトウェアの会社を作ろうと考えました。

西村:それは誰が仲間を募ってですか?

村田:ビットバレーにいろんなコミュニティーがあったので、そうしたところで仲間を探しました。自分よりもずっと年上の面々とかと一緒にやろうと、それで仕事を始めました。プログラムは全然書けなかったんですけど、そのときに一生懸命勉強して、ひたすらコードを書くというのを毎日やってました。大学は退学も休学もしていませんが、学校には行かず、平日は朝から晩までコードを書いていました。

金融ビッグバンの時代

西村:最初はどういうプロダクトを作ったのですか?

村田:いちばん最初に仕事で関わっていたのが某ネット証券会社の業務システム開発受託です。それから当時、統合を発表したばかりのみずほグループ各社や芙蓉グループなどの大企業連合が多額の資金を使って金融ポータルの「EMタウン」というのを立ち上げたんですけど、実はその画面の一部を受託して作っていたりしました。富士銀行が日本初のネットバンキングを始めたポータルサイトです。

西村:なるほど、金融ビッグバンの幕開けのころですね。今でいえばFintech第一世代ですが、どちらかといえば金融系のシステム開発受託みたいな感じでしょうか?

村田:そうです。自分たちのプロダクトを作るなんて、それこそサン(※)の2000〜3000万円のサーバーを買ってきてみたいな時代だったので難しかったんです。

(※)サン・マイクロシステムズはLinuxやクラウドが登場する以前、インターネット黎明期の商用Unixサーバーの代表格といえるワークステーションを開発、販売していた会社。プログラミング言語Javaを生んだことでも知られる。2010年にオラクルが買収

西村:クラウドもなかったのでシスコのルーターも買わなきゃいけないし、セットアップも専門家が必要でしたよね。

村田:ええ、とてもお金がかかる話でした。そういうこともあって受託の仕事をうまく拾いに行くという感じでした。当時はITシステムのコンサルティングをやっていたフューチャーシステムコンサルティングが学生に羨望の眼差しで見られていた時期です。「イケてるスタートアップといえばフューチャー」という時代でした。

西村:なるほど、学生が独自アプリをどんどんリリースする今とは隔世の感がありますね。それが1999年で大学1年生の頃ですか? 資金調達もされたのですよね? 銀行を回ったんですか?

村田:いえ、資金はエクイティで調達しました。商社など大企業から出資してもらいました。それなりに業績は作れていたんですよね。資金調達をして証券会社向けのASP(今でいうSaaS)を作ろうと取り組んでいました。当時は金融ビッグバンど真ん中、次の波が来るタイミングでした。証券決済の仕組みを変えようと、世界をリードする法案を当時の橋本龍太郎内閣が作ったんです。

西村:どういうことですか?

村田:証券システムでは「T+3」(てぃーぷらすすりー)という言い方をするのですが、上場株を買うとき、買い注文を出して約定(やくじょう)してから3日後に決済される仕組みが世界中にあるんですね。これを「T+1」にしようということになったんです。でも、T+3をT+1に切り替えると日本の証券会社のオペレーションは完全に破綻するんです。当時は手作業で伝票を切ってやっていたので、とても間に合わない。

西村:なるほど、それを電子化しようとしたんですね。

村田:ええ、そうです。それで何社かにシステムを導入してもらったりしたんですが……、橋本内閣が倒れて金融ビッグバンが終了してしまったんです。それで結局、T+1にはしませんという政治的な動きになってしまったんです。

規制緩和にストップがかかりハッピーじゃないエグジット

規制緩和にストップがかかりハッピーじゃないエグジット

西村:予測不能な政治的動きで志半ばで挫折ということでしょうか。

村田:いえ、自分たちとしては終わったと思わなくて。ものすごく業務の効率化になる仕組みが作れたという自信がありましたから、まだまだやる気もあったんです。だけど、株主からは「もう終わりだ」という風に言われてしまったんです。

西村:どういうことですか?

村田:規制が緩和されるタイミング、ひずみが出てくるタイミングで事業機会は作られるものなんですね。その機会がなくなったのと並行してネットバブルが崩壊したという流れもありました。だから会社自体は黒字で回っていたのに、株主としては撤退するという意思決定をしたんです。投資契約上、株主によるバイバック(買い戻し要求)はいつでも発動できるという内容が書いてあったんですね。ぼくは全くそれを知らなくて……。

西村:順調なときは問題がなくても、いざというときに契約を読むと極めて重要なことが書いてあったと。

村田:はい、撤退の意思決定を聞いたときは「えっ」という感じでした。話を聞いてみると、契約はこうなってるからと言われたんです……。ある意味では大人の世界ですよね。寝耳に水でした。出資してくれていた株主が抜け、現金をほとんど吸い上げられて、会社は残骸のような状態になってしまったんです。結局はそれを同業会社に救済してもらったんですけど。

西村:「救済」というのは買収ですよね。でも、ハッピーじゃないエグジットというやつでしょうか。身柄の引き受けに近いような。

村田:はい、完全に失敗です。失敗したなと。出資者からすれば、早めに損切りしようということだったんでしょうね。

西村:いま18年前を振り返ってみて、波に飲まれたのは仕方なかったと思いますか?

村田:波の見方というのは難しいですよね、予測できない部分はありますし。ただ、契約書は大事だなと思いました(笑)

再起を図るためにVCの門戸を叩く

再起を図るためにVCの門戸を叩く

西村:起業家と投資家との間で結ぶ投資契約の条項は丁寧に読め、という話は今でも良く聞きます。当たり前のように思えるかもしれませんが、そういうことに不慣れな若い人だと、うっかり大事な条項を見逃してサインしてしまう。

村田:ぼくもひたすらコードを書いていたので、それ以外のことがよく分かってなかったというのはあります。だから、これがキッカケとなって自分でスタートアップを起こすのを一旦ストップしたんです。

西村:それで投資家に?

村田:はい、サラリーマンベンチャーキャピタリストとしてのスタートが2003年からです。NIFベンチャーズ(現大和企業投資)に拾ってもらったんですが、再起を図るために、まずコードを書くのやめようと。

西村:もっと契約だとか、お金のスキームを勉強しようということですか。

村田:そうです。お金の回し方、財務諸表の使い方を学ぼうと考えました。財務諸表を読めはしても実際に実務上どうやって使うのかということを学ぼうと。あるいは人ですね。チーム組成の仕方だったり、ビズデブの仕方など、いろんなところで助走期間が必要と考えました。コードを書く以外の経営者として必要な素養は、どこに行けば自分の中に蓄積できるかと考えて、ベンチャーキャピタルが一番いいと判断したんです。

西村:ということは、その時点ではベンチャーキャピタリストになりたいというよりも、起業のための修行期間だったのですか?

村田:ええ、ステップアップみたいな感覚です。22歳のときでした。

西村:あれ? するとNIFは新卒で入ったのですか?

村田:いえ、新卒の年次ではあったんですが、もうすでに新卒採用は終わってたんです。終わってたんですけど、結果としてはジャフコとNIFの両方とも中途採用のプロセスで内定をいただいて。

西村:起業して会社を売却したとなれば、経験値は同期とは比較にならないですよね。

村田:起業経験もあったし、そもそもVCの知り合いの人もいたので「拾ってくれませんか」という話をしたんです。当時NIF社長の堀井さん(堀井慎一氏)と面談する機会があって、そのときに「3年以内にぼくは辞めます」と生意気にも宣言したりして(笑) こういう経緯があって今ここにいるので、ぼくはもう1回スタートアップを起こしたい、もう一度起業したいんだと話をしたんです。そうしたら気に入ったと言われて。むしろ「2年で辞めろ」と言われました。「2年で辞めて、そこにNIFから投資させる」と言っていただいて。すごいな、こんな人がいるんだって衝撃でしたね。

西村:いい話ですね。

村田:衝撃的な感覚で入社しました。

西村:それで何年いたのでしたっけ?

村田:丸7年(笑)

西村:あれ……、全然、2年でも3年でもないじゃないですか(笑)

日本を代表するキャピタリストたちとの出会い

日本を代表するキャピタリストたちとの出会い

村田:いろんな修行をしようと思って、ステージの若い会社を中心に投資活動をしていました。今でいうシリーズAくらいです。当時のNIFは結構大きなファンドを持っていたこともあって、それなりの金額を投資できる立場にありました。2億円とか3億円、あるいは5億円という金額です。その流れで後にインキュベイトファンドを一緒に立ち上げることになる赤浦徹と投資先の役員会で会ったんです。2005年のことです。いや、会ったというよりも、ぼくが計算して会うようにしたんです。イケてるベンチャーキャピタリストに会いたい、ということでした。

西村:そばで仕事を見てみたいと。

村田:一緒に仕事をしてみたいと思ったんです。学生のときにゼミでスタートアップの経営者を呼んできて、それを講義にして単位をもらうということをやったり、PE(プライベート・エクイティ)やVCファンドのことを卒論にしたんですが、そのときに仮屋薗聡一(現Globis Capital Partnersマネージング・パートナー)、赤浦徹という2人のVCについて知る機会があったんです。ワークスアプリケーションズのIPOを仕掛けにいったのは仮屋薗さんで、彼が主導した部分が大きいという話ですとか、サイボウズのIPOでは赤浦さんの影響が大きいということを知っていたので、その2人と一緒に仕事したいと思っていました。

それで赤浦さんがシード出資している会社はどこか? と調べて、いい会社を見つけました。それがビットレイティングスという会社で、今のアクセルマークです。そのビットレイティングスに出資をしました。それによって取締役会のオブザベーション権を取り、それで赤浦さんと初めて会って、めちゃくちゃ意気投合したんです。

そこから立て続けに彼がシードで入れている投資先に何社も出資していくことになりました。月曜日から金曜日まで綺麗に投資先の経営会議がバラけていて、ほとんど毎日赤浦さんと会うという状況になって、より一層意気投合して行ったんです。

起業家に近い立場でスタートアップが生まれる瞬間に立ち会う

起業家に近い立場でスタートアップが生まれる瞬間に立ち会う

西村:自分でスタートアップするよりも、VCとしての支援側にやりがいを感じるようになったのは赤浦さんの影響ですか?

村田:赤浦さんや仮屋薗さんといった第一線のベンチャーキャピタリストと呼ばれる人と一緒に仕事をして、これは素晴らしいなと強く感銘を受けました。スタートアップの組織が生まれる瞬間とか、プロダクトが生まれる瞬間、初めて売上が立つ瞬間というダイナミズムがすごく面白いと思って、もう一回やりたいと思ったんです。今もそうですが、第一線のキャピタリストである彼らは、次々に同じ再現性を持ってそういう立ち上げをやっているんです。

西村:金融系のVCと違って、事業構想から経営支援まで「ハンズオン」をやるタイプのVCですよね。

村田:ええ、より起業家に近い立場でやっています。赤浦さんのそばで、それを目の当たりにしました。シリアルアントレプレナーではなく「パラレルアントレプレナー」のような形で、複数のスタートアップの創業期に関わっていくことができるんです。しかも、その再現性がどんどん高まっていくところに面白さを覚えたんです。

伝説の米国VC、ジョン・ドーアとの邂逅

村田:シリコンバレーの歴史を研究をしてみれば、ジョン・ドーアとかマイク・モリッツがいるわけです。

西村:2人とも伝説のVCですよね。ジョン・ドーアは今も名門VCのKPCBでパートナーですが、PC産業、ネット産業で名だたる企業への初期の投資家として知られています。Compaq、Netscape、Sun Microsystems、Amazon、Google、Slack、Uberなどがジョン・ドーアの出資先でした。マイク・モリッツはYahoo!、PayPalなど多くの企業をVCとして支えました。

村田:ええ、彼らが関わってきた会社というのはアメリカのインターネットの歴史そのものになっています。本当に彼らが「全部」に関わっている。これはどういうことだろうと考えると、やっぱり再現性をもって事業が作れる人が、きっといるんだろうなと思ったんですね。アメリカには少なくともいる。それでジョン・ドーアにメールを打って、会いに行ったんですよ。

西村:おお、ジョン・ドーアに会いに行ったんですね。どういう言葉をもらったんですか?

村田:それがね……、 「お前の言ってることはどうでもいいんだ」っていう風に言われて(笑)

西村:え、どういうことですか?

村田:昨日の夜、孫娘に言われたことにショックを受けたということを話しだしたんです。「おじいちゃんはインターネットの神様みたいな扱いをされて、いろんな会社を興こしてシリコンバレーの中心にいるとかなんとか言われてるけど、世界を見回してみたら環境汚染は進むし、戦争はなくならないし、ひとつも平和になっていないじゃない。おじいちゃんは何に寄与したの?」と孫娘に言われたんだというんですよ。それがすごいショックだと。

西村:晩年になって孫娘から、すさまじいダメ出し食らったと(笑)

村田:それで「おれはどうすればいいと思う?」みたいな感じで、むしろ聞かれたりしたんです。

西村:ある意味とても真面目な人なんですね。

村田:でもそれが後の「クリーンテック」に繋がっていくわけです。振り返ると結構あれは歴史的な瞬間だったんです。

西村:あ、そうですよね。「次に来るトレンドはクリーンテック」と言われた時期がありました。もうシリコンバレーはクリーンエネルギーに目を移してるんだ、と日本でもずいぶん報道されていました。あれから10年くらい経過して、今はだいぶ冷めた感じはしますけど。

村田:はい、当時は政権を巻き込んで盛り上がりました。シリコンバレー的に言うと、割と「やっちゃった……」(外した)みたいな感じではあったんですけど、でもその結果生まれたのがテスラだったりするわけじゃないですか。

西村:何かは生み出してると。

村田:そう、クリーンテック自体は思ったほど産業として成長はしなかったものの、産業を産みだす存在のような人はやっぱりいるんだということを感じました。この人が動けば新しい産業が生まれるという人がいる。それはすごいことだなと思ったんです。

西村:再現性をもって企業群を生み出し、産業といえるレベルのエコシステムを作り出す。そんな陰の立役者ですね。

金融危機で逆に独立を決意、投資委員会のやり取りに辟易

金融危機で逆に独立を決意、投資委員会のやり取りに辟易

村田:当時、赤浦さんとのコミュニケーション機会が増えていく中で、近い将来一緒にファンドをやろうという話で盛り上がりました。当時27歳、2008年の話です。さらに、2007年ぐらいから赤浦さんの方でやっていたFoF事業(ファンド・オブ・ファンズ:1つのファンドから子ファンドを複数作るという構成)というのがあります。

そのFoFの出資先第1号が本間真彦、第2号が和田圭祐です(インキュベイトファンドの現ジェネラル・パートナーの4人のうちの2人)。それぞれがマイクロVCをやって成果が出始めていました。もう少しファンドを大きくスケールしたいと考えている最中だったので、それじゃあ4人がイコールパートナーとして一緒にファンドをやろうとなって、それでぼくは2010年3月末でNIFを退職してインキュベイトファンドを立ち上げました。

西村:2010年といえば、リーマンショックの余波で、時期的には金融系VCがパタパタと店じまいした時期でもあったんですよね?

村田:そうです。とてもシンボリックな出来事がありました。当時、NIFの投資委員会に新規の投資案件を持っていくと、ぼくの案件の稟議はほぼ全てスパッと通るという状態でした。社内調整が得意だったこともあって、好きなように投資ができたんですね。

当時NIFの中ではネット系の案件は、大体ぼくのところに集まってくる構造になっていたから非常にいい環境にあったんです。ところがgumiの一番最初の投資ラウンドに資金を入れるときに稟議で落ちたんです。それは、その日のうちに巻き返して稟議は通ったんですけど、その次に稟議に上げたのが名刺管理のSansanの一番最初の調達ラウンドでした。そのラウンドの投資委員会の審査で落ちたんです。「名刺はデータじゃないだろう」という反応だったんです。

西村:理解を得られなかった、と。

村田:「名刺交換とは……」みたいな良く分からない抽象的な議論になり始めて、ああ、もうこの環境にいるのはつらいなって。もう勘弁してよと(笑)

西村:説得する時間がもったいないし、ストレスだということでしょうか。これは「会社員あるある」かもしれません。同じ景色が見えているわけじゃないので、どうしても説明コストが大きくなることはありますよね。

村田:ええ、それで赤浦さんにも「村田さんでも落ちることあるんだね。もう辞めちゃえば」って言われましてね。まあ投資委員会の審査が厳しくなったのは、実際にはリーマンショックの影響だったんですけどね。投資案件数も絞らなくちゃいけないし、投資の回収モードに入っていて、新規のファンドレイズができなくなったんです。2009年の日本のVC全体のファンドレイズが総額で200億円くらいでしたから。

西村:リーマン以前とか、直近の2010年代の後半だと年間2000億円とか3000億円くらいで推移してますから、200億円規模といえば相当な落ち込みですね。

村田:そうです、当時は10分の1くらいに落ちていました。スタートアップの年間調達額も200億円あるかないかぐらいまで、どーんと落ち込んだ時があったんです。これはNIFだけじゃなくて、ジャフコやSBI、JAICも同じでした。軒並み投資をストップ。銀行系もストップ。そんな状態になって、そこから独立系VCが結果として増えていったんです。

西村インキュベイトファンドだけじゃなくて、もともと三菱UFJキャピタルにいた現B Dash Ventures代表取締役の渡辺洋行さんもですよね。振り返って考えると、リーマンショックで2009年以降に金融系VCから飛び出した投資家が次々と独立系ファンドを立ち上げたっていうのは、特にシード期の日本のスタートアップエコシステムにとっては良かったのかもしれないですね。

村田:そうかもしれないですね。結局、その転換期のおかげもあって、それまでエクイティファイナンスでも普通株が当たり前だったのが、種類株に変わったりしましたしね。リーマンショックでリセットされてからは、シリコンバレー流が普及したんです。TechCrunchなどの記事で、日本にもそうした情報が入ってくるようになったこともあり、シリコンバレーの流儀ががたくさんインプットとして増えたんです。

西村:種類株の使いこなしや設計は、今もまだ進化中ですよね。500 Startups Japanが米国から持ち込んだ、投資契約のテンプレート「J-KISS」もあります。

独立系VCでシード期の投資案件が増えた

独立系VCでシード期の投資案件が増えた

西村:独立VCが出てきたころから投資フェーズとして、シリーズAからシード側へ寄せられるようになったという違いもあったりしますか?

村田:そうですね。もともとぼくがNIFでやっていたのはシリーズAばかりでした。それがシード的な案件も、どんどん手がけるようになっていきました。インキュベイトファンドを作る上で、ずっと赤浦や本間、和田とやってきたのは「ファーストラウンドから投資家として入って、リードポジションを取る」ということで、事業がゼロのときから最大出資者になるというスタイルを大事にしてきました。

ゼロから起業家と一緒に自分でも事業を立ち上げに行くということを赤浦はずっと以前からやっていたんです。赤浦は昔から、ざっくり言うとポストマネー1億円で、2000万円から3000万円を出資するというスタイルです。

西村:それはVC投資一般の水準から悪い言い方すると、シード期としてはシェアを取りすぎという感じもありませんか。一般的には発行株式の5〜15%程度ですが、それだと20〜30%というシェアですよね。

村田:そうですね。ただ、赤浦自身が事業のアイデアを作るし、いちばんプロダクトを売ってくるのも赤浦なんです。そうやって全力で立ち上げに行くっていうスタイルです。だから彼に背中を押されて起業するというケースも多いんです。それを見て、ぼくは「間違いなく、これだ」という風に思ったんです。

日本のVC投資にも多様性が出てきた

西村:単にお金を入れるだけの投資ではなくて、起業家と一緒に事業を作りにいくというVCの在り方は、アメリカだとどういうところがありますか?

村田:いわゆるスタートアップスタジオ方式です。Andressen Horowitzだったり、GoogleのCVCであるGV、あるいは老舗だとセコイア・キャピタルも、そうしたスタイルと言えると思います。

西村:日本のスタートアップ投資の風景も変わってきたということでしょうか。

村田:ダイバーシティーが出てきたということだと思うんです。VCと呼ばれる投資家の数も、もともと多くなかったですし、いたとしてもサラリーマンばっかりでした。サラリーマンVCで、かつ金融機関系のプレーヤーばかりという状況でした。

VC全体のファンドレイズの3分2以上は金融機関系でした。そうすると得意領域はファイナンスとか管理会計をどうするかとか、あるいはIPOで主幹事証券会社や監査法人どうするといったことが得意な人が多いわけです。銀行系のVCであれば、どう与信を引っ張ってくるのかが得意だったりします。

西村:その頃はゼロイチで事業を作るのは起業家で、ある程度トラクションが出て売上も年商1億円が見えてきましたという会社にファイナンスするのがVCの仕事という風に、今よりずっと役割が分かれていたのでしょうか。

村田:VC側にも多様な専門性を持った投資家が増えています。例えば事業家として組織作りが得意な人やプロダクトのローンチが得意な人、そのプロダクトをグロースさせるのが得意な人がいます。あるいはもっと細かく切っていくと、VCでもUI/UX設計が得意な人も出てきてると思うんです。研究開発型スタートアップ特有のことに詳しい投資家もいます。例えば、ある化合物製造のパイプライン管理の仕方で最もイケてる手法を確立してる人とか、薬事であればFDAのプロセスにめちゃめちゃ詳しい人とか、半導体の設計プロセスが得意な人とかですね。

そうした得意技が明確にあるような人は、かつては大手事業法人出身の人だけでした。でも最近は、VCをやっている以上、当たり前のようにプロダクトの仮説を一緒に考えることができないと、そもそもデュー・デリジェンスができないという風になってきました。事業に対する投資家の理解度は、この15年ぐらいですごく上がってきたと思います。

西村:単にお金を出すだけじゃなくなったということでしょうか。いわゆる「ハンズオン投資」が日本にもついに根付いてきた、と。

村田:そうですね、だからハンズオンという言い方をする人も少なくなってきましたよね。

西村:あえて言うことじゃないと。

村田:そうですね。国内VCの人たちの顔ぶれを見ていてもダイバーシティーが増えてきたし、経験値も溜まってきた。CVCであっても、GP(ジェネラル・パートナー)を務めている面々は投資家や経営者としての経験値が10年とか15年、あるいは20年と溜まっています。そういう人が、すごく増えました。だから、それぞれの投資家の得意技というのがハッキリしてきています。

絶望的な状況にも慣れる

絶望的な状況にも慣れる

西村:経験値が溜まるのは数をやるからですか? やはり修羅場の数も大事ですか?

村田:起業家も投資家側も経験は大事です。例えば「もう来月お金がありません」とか、「共同創業者が逃げた」、「朝出社したらスタッフが全員消えていなくなっていた」、「半年かけて作っていたソフトウェアが人力で消去された」、「そもそも発注した先が何もやってなかった」とかですね(笑)

西村:眼の前が真っ暗になりそうです(笑)

村田:ええ、初めてそういう状況に遭遇すると、ふつうは絶望するじゃないですか。「村田さん、もう終わりました……」と起業家は言うわけですよ。でもね、そういうのも慣れますし、「良くあることだよ、むしろいい経験したね」という風に言えるようになります。

西村:逆にリカバー可能じゃない修羅場って、あまりないのでしょうか?

村田:しぶといこと、というのがスタートアップの一番の成功則だと思うんです。とにかくトラブルは起きます。あらゆるトラブルが起こります。だけど、お金がなくなっても、共同創業者がいなくなって一人ぼっちになっても、それでも会社は生きるんですよ。実際、ぼくの投資先でも、ここ数年の間で、そういう修羅場をくぐった会社は何社かあります。

失敗経験は強烈な糧になる:GameWithの例

西村:去年上場したGameWithも倒産したところから出てきた会社なんですよね?

村田:はい、GameWithの前にコスモノーツというソーシャルゲームの会社がありました。それを1度潰した経験があります。社長が失踪しちゃったんです。

西村:え、失踪ってどういうことですか?

村田:いなくなっちゃったんですよ。連絡が取れなくなっちゃって。覚悟を決めて、当時CTOで後にGameWithを一緒に立ち上げることになる今泉さんと2人で社長のマンションまで行きました。壁をよじ登って彼の部屋に突入したんですよ。

西村:そうしたら、いた?

村田:突入したら、もう廃人のような社長が出てきて……。本当にぼろぼろの社長が出てきて……。その姿をみて「もういいよ。もういいから、もうやめよう」となりました。まだキャッシュは残っていて、黒字で回ってたんですが、もうこの会社はたたもうと話をしました。それで開発中だったゲームタイトルの資産も含めて、机や椅子を一個一個売りに行きました。

西村メルカリがあれば良かったのに(笑)

村田:本当そうですよ(笑) まあ、それで会社の資産を全部、売ったんですね。ホワイトボードとパイプ椅子3つだけ残して。それで最後の取締役会で、ホワイトボードの前に立ち、「これからの清算手続きを説明します」と言ってガリガリと必要事項を書き上げていって、最後に「じゃあ解散」って宣言して終わりました。そのとき社長だけが「じゃあ、お疲れ様です」と立ち去って、今泉さんと2人になりました。ちょっとタバコでも吸いに行こうかといって2人でタバコを吸いながら、「いや悔しい……」と話をしてね。完全に失敗した、と。悔しいから、「もう1回一緒にやらない?」と、声をかけました。

西村:それがGameWithなんですね。

村田:ええ、そうです。ただ、何の事業をするのかというのは、そのとき考えていなくて、週が明けてから、2人でそれぞれ事業プランを考えてきて、ぶつけあう会をやりましたね。2013年の話です。ぼくは5個考えていって、1つずつ説明しました。その中にゲーム攻略Wikiというのがありました。その案で事業計画書を書いて、チーム集めをやり、それで巣鴨の4LDKのマンションをぼくの名義で借りて、創業メンバーがそれぞれの部屋に住んで開発に集中しました。

西村:共同生活をしたんですね。

村田:リビングがオフィスでした。ローンチしてからは一気に立ち上がっていった感じです。会社を創業して丸4年で上場までこぎつけたんですけど、上場規模の業績作るまでに3年かからなかったんです。とてもいい形で事業を作れたなと思います。

時代の変化に翻弄されて失敗

時代の変化に翻弄されて失敗

西村:スピード上場でしたよね。ところで、GameWithの前のコスモノーツですが、キャッシュが回って黒字でゲームタイトルも開発していたのに精算しなければいけないというのは、具体的に何が失敗だったんですか?

村田:当時2012年はパズドラがスタートした年で、ゲーム業界でブラウザゲームからネイティブアプリへのシフトが一気に起こった瞬間でした。明らかにユーザー体験としてネイティブゲームのほうが優れていると分かってきた時期で、DeNAのモバゲーやGREEのプラットフォーム上でサードパーティーがゲームを出しても構造的に儲からなくなってきたんです。

ぼくらの会社はセカンドパーティーの位置付けで作った、ゲームの制作会社だったんです。立ち上げ当初はタイトルを出せば初動の月商5000万円ということもあって市場自体が活況だったんですが、2012年ごろにはもう、プラットフォームが集客動線を切った瞬間にユーザーがいなくなるというような状況で、これはもう無理だという感じでした。

西村:時代の変わり目に翻弄された感じですか? なぜスマホシフトができなかったですか?

村田DeNAとの関係や契約上、スパッと切るという判断ができないデッドロック状態になっていました。ネイティブゲームの方にどんどん人が流れて行く中で、ブラウザゲーム開発の現場のほうは、もう野戦病院のような状態で頑張っていました。少数ながら皆で頑張って作っていたんですけど、朝起きたら皆んないなくなっていた、みたいなことが起こって。

西村:つらすぎますね。

GameWithの再スタートでは失敗の蓄積が有効に

西村:技術トレンドとビジネスのパワーバランスに翻弄される形で行き詰まった。それで会社が潰れたと確定したその日に立ち上げることにしたのがGameWithだったんですね。

村田:ええ、だから、会社の立ち上げ方から組織の作り方、プロダクトの作り方などに、明らかに反省が活かされてるんですよ。「ここには絶対に地雷が埋まってるよね」と、ぼくと今泉さんの2人とも分かるんですよ。GameWithの場合は互いに共通の原体験を持っていたので、それで判断が異常に早くできた。「ここには爆発物が仕込まれてるから早めに舵を切ろう」ということができるんです。早めに判断するのもそうですし、こういう人を採用しちゃダメだというのも分かる。意思決定のプロセスや権限移譲の仕方など、こうした方がいいという知見が溜まっているんです。

西村:スタートアップで良く聞く話に、例えば10人目に入った、たった1人の人間によってチーム全体が崩壊したという話があります。とても優秀な人だと思って入れた、と起業家の多くが言うんです。皆んな採用では苦い失敗を経験している。でも、そういう失敗が糧になるんですね。

村田:ちなみに、GameWithの前の会社を潰したときに失意のどん底だった社長も、その後は別の会社を作って買収されるまで行きました。そういう意味では、失敗しても、そんな風に再起もあるんだということですね。失敗の経験は強烈な糧になります。メルカリの山田進太郎さんにしても、やっぱウノウ時代の経験がめちゃくちゃ生きているはずです。チーム作りとか事業の仕込み方とか。メルカリには「スタートアップを立ち上げて失敗しました」という人が大量にいます。

西村:現メルカリ代表の小泉さんに以前インタビューしたとき、ミクシィ時代の経験を反省として振り返るということがありました。

黒歴史のあるすごい人達が集う梁山泊

黒歴史のあるすごい人達が集う梁山泊

村田メルカリの初期メンバーの間には、ものすごい量の失敗経験の蓄積があると思うんです。

西村:失敗して学んできたことの集大成が集結して、メルカリが梁山泊的になってきてると言えそうですか。

村田:明らかになってると思います。

西村:そういう意味では産業としても会社としても個々人としても、失敗という経験から学んだ量って大事なんでしょうか。失敗を恐れないとか、失敗は成功への糧だみたいなことって、お題目としてはみんな言いますけど、実際これは強烈だと。

村田:実際に苦い経験をした人が「ひどい目にあった。もう、それは絶対いやだ」といえば説得力がありますよね。それからもう1つ、あの人は前の職場で一緒だったけど「素晴らしい」とか「問題あり」とか評判情報が流通しています。いまはコミュニティーの真ん中にたくさん人がいるから、組織作りのときにリファレンスが簡単に取れます。そこも変わってきていますね。

西村:人物デューデリは極めて重要といいますよね。地頭の良さや戦闘力もそうですけど、人柄とかチームワークができるかとかですよね。良く聞くのは評論家タイプはやばいという話です。

ストック・オプションは広くは知られていない

ストック・オプションは広くは知られていない

西村:大型上場の明るいニュースが流れたのでメルカリの話を少し続けると、メルカリはストック・オプションの配り方もすごいですよね。

村田:役員になっていない人も含めてキーマンと言える人に対して、しっかりとストック・オプションを出していますね。

西村entrepediaの集計によると、6億円以上のキャピタルゲインを得ることになる人が35人もいるとありました。その他630人に均等にストック・オプションが割り振られていたと仮定すると1人あたり3200万円だという話です。一方で、スタートアップによっては、ほとんどストック・オプションを配っていないところもあります。そのぶん給料をしっかり出すという考えもあるかもしれませんが……。

村田:日本だと、もう1つ別の話もあります。以前あるエンジニア向けイベントのパネルディスカッションでCTOの皆さんに聞いたんですよ。「生株を持っていますか? ストック・オプションを持っていますか? 持っているなら何パーセント持ってますか?」ってね。そうしたら絶望的に皆持ってないんですよ。

西村:これは日本だけですよね。なぜかCFOだけがやたらにシェアを持ってるとか(笑)

村田:はい、一体どうなっているんだと。お金に関するリテラシーを上げて行ってスタートアップの資本政策に関わる部分も変えていかないとダメだ、という話をそのイベントでもしました。

西村:ポジティブな見方をすると、日本のスタートアップも、あっと言う間に変わってきたと言ってもいいですよね。例えば10年前だとストック・オプションによって初期メンバーにインセンティブを渡すというのは少なくて、創業者と創業メンバー2、3人だけが株を全部もってるというのが大多数でした。一方で、ストック・オプションは絵に描いた餅で、人参をぶら下げて走らされる馬のように「騙されている」と感じる人もいるようです。確かにストック・オプションは上場なり買収なりでエグジットしないと意味がないわけですが。

村田:だからストック・オプションの意味を対象者にも分かっていただくために、出資先企業で説明会をやったりしています。

西村:今のところ、ストック・オプションで数千万円とか数億円を手にしたスタートアップの一般従業員というのは日本では少ないからなのでしょうか。シリコンバレーだと受付の女性がストック・オプションで数億円という話も聞きます。この辺は鶏と卵かもしれません。ストック・オプションが広く知られていないし、相場観も未熟。このステージでこういう役職でジョインすると、このくらいのストック・オプションというテーブルがシリコンバレーだとあるといいますよね。TechCrunch Japanのようなメディアに出ている資金調達の金額を見てスタートアップに転職する人が多いらしいんですけど、本当はストック・オプション政策についても見たほうがいいのかもしれませんね。

村田:誰に出しているかまでは分からないですけど、登記簿謄本を見れば全体の何%を従業員のストック・オプションに割り当てているかは書いてありますしね。

西村:どのスタートアップが、どれくらい寛大にストック・オプションを出しているかをABCで格付けするようなことは、メディアがやったほうがいいのかもしれません。「このスタートアップはストック・オプションは全く出していないから、給料が高いとか、よほどやりがい感じてないなら微妙だよね」という判断はあると思います。

創業者の夢の実現に協力して大成功のエグジットをしても100億円のうち6割とか8割を全部その創業者が取ることになりますよ、と。そうじゃなくてストック・オプションを寛大に出しているところなら、そのうち4割の40億円は、ジョインしたタイミングによってメンバー間で分けますよということで、多ければ数億円のキャピタルゲインになる、ということですね。給料と同じでストック・オプションの設計や方針は自由なので創業者なりVCが自由にやればいいし、外野がとやかく言うことではないかもしれません。

ただ、透明性がないのはフェアじゃないですよね。それに、エクイティを持って働くことが強烈なインセンティブになるというのがVC支援によるスタートアップエコシステム興隆の背景にあるはずです。だからストック・オプションを出さないスタートアップ企業よりも、寛容に出すスタートアップ企業のほうが目に見えて優秀な人材を惹きつけることができ、その結果エグジット率が明らかに高いということになってくれば、この辺も変わってくるのでしょうね。

村田:そういう意味ではストック・オプションの話も、どんどんオープンにしようよということですよね。

西村:メディアの存在意義は全体最適のために情報の透明性を上げることにあるので、短期的に特定グループに嫌われてでも、この辺はやるべきなんですよね。情報の非対称性を薄くマネタイズしているプレイヤーがいるなら、そこで損なわれているマクロな成長余力を開放できる立場にあるというか。

村田:アメリカのメディアはSEC(アメリカの証券取引委員会)の申請資料をどんどん拾って来て記事に貼り付けるじゃないですか。日本のメディアも登記簿謄本とか上場承認時の有価証券報告書をどんどん引っ張ってきて記事を書けばいいのに。

西村:すみません、ぼくのTechCrunch Japan編集長時代の不甲斐なさを今になってご指摘頂いてる気がしてきました(笑)

ストック・オプションは法整備もまだ途上

ストック・オプションは法整備もまだ途上

西村:法制面でもストック・オプションは使いづらい面があるとも聞きます。スタートアップだと、例えばストック・オプションは退職とともに権利が消失するという話がありますよね。これは税制上の理由でそうなっていると聞きました。

村田:いえ、本当は、そんなことありません。いわゆる税制適格ストック・オプションの要件として、その企業の「役職員(従業員)であること」というのがありますが、あれは権利の付与時だけの話です。オプションの行使時ではないんです。

西村:「会社を辞めたら、その時点でストック・オプションなしね」という条文が入っているのは税制上の要請ではないのですか?

村田:違います。ただ、多くの場合、ストック・オプションの契約の条文の中に退職したら取り上げますと書いちゃってますね。

西村:例えばスタートアップにジョインして3年経ち、シリーズAの資金調達も終えて売上も立っているものの、まだしばらく上場が見えないというケースがあったとします。エンジニアとしてシステム開発をゼロイチやってコア部分は終わっている。エンジニアリングとして面白みや貢献ができている手応えが下がってくる。そういうときに「辞めてもいいけど、辞めたらストック・オプションは消えますよ、どうも今までありがとう」という話になるわけですよね。すると事実上のロックアップとして機能するということでしょうか?

村田:そうです、だから少しおかしいんですよね。「キーマン条項」に近い形になっちゃってるというか。

西村:キーマン、つまりその人が抜けると組織やプロジェクトが立ち行かなくなるというような、例えばファンドのパートナーに課せられる罰則的条項ですよね。そうしたストック・オプション消失の条件が、キーマンではない従業員なのに課せられるのはやりすぎだ、と。

村田:だから、ベスティング(vesting)とクリフ(cliff)の設計を、ちゃんと広めていくべきだと思います。

西村:ベスティングというのは付与を数回に分けるやり方ですよね。1年目で全体の25%、2年目でまた25%と付与して行って4年で100%が付与される。これなら在籍期間による貢献度に応じたストック・オプションの割当ができそうです。

お金のリテラシーはまだこれから

西村:ストック・オプションを持つ従業員も含めて、エクイティを使ったインセンティブによって才能ある人を惹きつけて大きく事業を育てるというのは、すごく良い仕組みだと思います。私自身は、より収益性の高い成長産業へ人材の移動を促して経済を活性化する仕組みと思っています。ただ、日本ではまだ理解が追いついていない印象もあります。

村田:そこはアメリカとは違いますよね。AmazonやMicrosoft、Googleといった大きな会社に勤めてる従業員の人たちでもエクイティやストック・オプションに関する理解はすごく高いです。たとえ上場した会社であったとしても権利としてしっかりストック・オプションやベスティングによる生株を出すところ多いからです。4年に渡って給与の一部として株を渡すような仕組みがあります。だから入社して4年目になると「今年でベスティングが終わりだから」ということを考えていたりしますよね。

自分の在籍期間中に株価がどれだけ上がったかというところにも関心がある。そういう仕組みがあるから、これから伸びそうな会社に入るし、自分がパフォーマンスをどれだけ上げて、どう貢献できるかということを考えてる人が多い。日本は、そうなっていません。まだまだまだ学ぶべきところがあると思います。

西村:上場したスタートアップは人材採用が難しくなるという話もありますが、上場後もストック・オプションやベスティングで従業員にエクイティで還元する仕組みを積極的に利用すればいいのかもしれませんね。

村田:日本は資本主義の国ですが、資本主義に関する教育が全くされていないですよね。そこも変えていかないと、と思います。世の中でエクイティ・インセンティブが一般的になってくると、隣に住んでるおじさんがキャピタルゲインで3000万円もらったみたいな話が一般的に聞こえてくるようになると思います。

西村:そうなると、きっと「私もオレも!」となりますよね。

起業家を増やすためにベンチャーキャピタリストを増やす

起業家を増やすためにベンチャーキャピタリストを増やす

西村:IT社長と芸能人の熱愛報道なんかが増えて、少し社会的に認知も広がったかなという気もしていましたが。

村田:起業自体はやりやすくなったと思います。ただ、なかなか「よし起業するぞ」と腹くくれない人は、とても多いわけです。そういう人たちの背中を押せる人が増えた方がいいなと思います。投資家じゃなくても、これまでに起業した経験がある人とかね。いわゆるメンター文化が少しずつ日本にも浸透してきています。そういう役割をベンチャーキャピタリストが一部、担っています。だから、うちの赤浦が良く言うんですが、1人の起業家を支援するのもいいんですけど、1人のキャピタリストを支援すれば、その1人が20人の起業家と一緒に20社を立ち上げていくという連鎖に繋がっていく。そうすれば起業家ももっと増えていくし、そこに対して必要な資金も増えていく構造になっていくと思います。

西村:起業家とVCという立場を行き来する人もシリコンバレーには多いですよね。

村田:行ったり来たりする人は増えて欲しいですね。イケてるベンチャーキャピタリストは、起業家とほとんど気質が変わりません。リスクの取り方とかですね。プロダクトを作るのが得意だったり、事業を作るのが得意な人というのがいる。起業家と投資家の両方の側面をあわせ持ってる人としてはアメリカだとピーター・ティールやリード・ホフマンといった人がいます。彼らの周囲にどんどんスタートアップ企業が生まれてくる。ものすごいインパクトを生み出せるわけです。

ストック・オプションでエンジェルが増える口コミの波及効果

西村:そう考えると、例えばSmartHR創業者の宮田さんが5年後にガンガン投資をしてくれたらビジネス系のスタートアップはもっと盛り上がるかもしれませんね。

村田:日本でも成功した起業家が、若い世代のスタートアップにどんどんエンジェル投資していく文化が少しずつ広がってきていますよね。

西村メルカリソラコムのようにストック・オプションで従業員がエンジェル投資家になっていくという流れも素晴らしいですよね。

村田:メルカリだと300とか400人くらいのストック・オプションが可視化される状態になり、そのバイラルを生む効果もすごいと思います。

西村:そうですよね、隣に座っていた友だちのエンジニアが聞いたことのないスタートアップ企業に転職したと思ったら、ものの3年で3000万円を手にしたらしいと、そんなことをリアルに耳にするようになる。

村田:これまでそうした話は投資家や経営者をやっていないと会話に出てこなかったですからね。そんな会話が急に生まれて来ると思います。

オープンイノベーションやCVCは人の継続性が重要

オープンイノベーションやCVCは人の継続性が重要

西村:オープンイノベーションの話も少しうかがいたいです。いま日本のスタートアップ文脈だとCVCが非常にたくさん出てきて事業会社もスタートアップへの投資や協業にすごく興味を示しています。

村田:ええ、ぼくも結構相談を受けていて、これまでたくさんのコーポレートVCの組成に関わってきました。その度に、ファンドレイズの仕方とかファンド設計の仕方、親会社がいる場合は親会社にどうやって説明して投資の決定権を持つのかといったことは良くお話します。ただCVCの一番の肝は人です。どれだけファンドの運用期間とほぼ同じ期間、同じ人をずっと当て続けるかです。

西村:ファンドの運用期間は10年とかなので「出向で3年だけ」とかではだめなんですね。

村田:そうです。だから、例えばKDDIは大企業としてスタートアップとの協業や買収で最も先進的な事例を生み出している企業ですが、特定の人が継続して取り組んだ結果とも言えます。まず、江幡智広さんがKDDI∞Labo長でスタートアップ支援プログラムをやっていましたよね。ずっと2011年からつい最近までコミットしてやっていたから起業家らとも人間関係がうまく行くし、スタートアップともうまくやっていける。あるいは2018年4月にKDDIの新代表に就任した高橋誠さんも、1990年台後半から、ずっとスタートアップとの接点を作り続けてきて、スタートアップフレンドリーであるという状態がありました。

西村:先日、G1ベンチャーというイベントで江幡さんが登壇して、こんな発言をしていました。KDDI∞Laboの活動自体は何年も目に見える結果が出なかったので会社員としての個人の評価はずっと最低だった、と。でもそんなことは全く気にならなかったと爽やかに言うんです。会社の外に出て起業家たちを支援する、ということにコミットしていたんですね。

そういう心意気のようなものを起業家を始めとするスタートアップ業界の人たちは肌で感じたから、江幡さんやKDDIに対して感謝しているとか、尊敬しているという人は実に多いですよね。KDDIは人事異動があまりない変わった人事制度があるという話でした。

村田:そうですよね。そうじゃなく普通の人事異動があるとCVCは難しい。ファンドを新しく作って最初の3年で投資して、4年目や5年目で人事異動という話になると、新しく担当者が変わった瞬間が、投資先が潰れましたというようなニュースが出てくるタイミングだったりしますからね。投資先の多くで失敗が先行するのがスタートアップ投資の常で、4年目とか5年目にそうした失敗の波がドカーンと来ると、「あいつに引き継いだ瞬間とんでもない損失にしやがって」ということを社内で言われる。後任担当者はかわいそうですよね、「いや俺じゃねぇし」という話ですから。でも、そういう光景をぼくは何回も見てきてるんです。

CVCでキャリーの設計をどうするか

西村:CVC立ち上げで聞くのは、CVCの投資家のキャリー(成功報酬)の設計をどうすべきかという論点です。投資でリターンが出た場合、例えば50億円がプラスとなった場合に10億円が成功報酬として投資家に入るわけですが、事業会社の子会社として設立した場合、親会社社長の給料を一気に抜き去ってしまって「けしからん」となるという話があります。

村田:でもそこもすごく大事な話です。8年なら8年、10年なら10年と張り付ける担当者に対して、ちゃんとキャリーとか、せめてそれに似た成功報酬が発生しないと意味がないと思うんです。CVCの中でも個人がGPのパートナーシップに加わるのを許容し始めたところが最近少し出てきたという感じです。VCで最大手のジャフコも最近パートナー制度にしました。ちゃんとキャリーが発生していくGPとしてやっていくには、どう組織を設計して行けばいいかと多くのVCから相談を受けたりしています。

西村:VCの世界では若手の独立が相次いでいますが、そうやって組織型VCでも個人に対する報酬制度を整え始めているということでしょうか。

大企業や研究所よりスタートアップが有利なわけ

大企業や研究所よりスタートアップが有利なわけ

西村:最近、プロダクト指向がそこまで強くない研究者によるスタートアップ起業も日本で見るようになった気がします。アラヤという人工知能のスタートアップは日本のDeepMindじゃないかと個人的に思っています。アラヤ創業者の金井良太さんはコンピューターの中に意識を作りたいと言って取り組んでいるんですが、もともとは神経科学の研究者です。継続して大きな目標に取り組むためには研究開発費がいるということで、それでスタートアップをやっている面もあるそうです。

村田:最近よくメディアで注目されている落合陽一さんも似ているかもしれません。3年前に彼と一緒にPixie Dust Technologiesという会社を立ち上げました。当時はまだ東大の博士課程にいる学生だったんですけど、彼は研究開発に興味がある。研究には興味があるけど会社経営には全く興味がないという話をしていたんですね。

ただ、社会実装には興味があるというんです。自分の作ったプロダクトを社会に適用していく部分ですね。じゃあ自分がやりたい研究開発をするには、いくらお金が必要でしょうかという話をしました。例えば50歳、60歳になるまでに、20年とか30年の時間軸があるとして15億円とか20億円くらいあるといいでしょうか、と。でも、東大や筑波大には、いくら研究開発予算があるの、と。

西村:そんな予算を引っ張って来れませんよね、ということですか?

村田:頑張っても数千万円ですよね。だったらスタートアップを立ち上げに行きませんかという話をしました。最初はフルコミットしなくてもいいから、いま狙っている基礎技術のIPを取り、論文を書き、プロダクトを作るところまで行く。そこまでに必要なのは4000万円くらい。その4000万円をこの場で出すから、と話しました。まずは、商品化まで行ってみようと。そこまで行けば、きっと景色が変わるからという話をしたんです。

それでPixie Dust Technologiesはスタートすることになった。製品化した上でシリーズAやBで大きく調達しに行くのか、はたまたそのIP自体が数十億円くらいでエグジットするという形になるのか。でも、「落合さん、エグジットしたお金で一生研究していけますよ」という話をしたんです。IPOを目指すのか売却によるエグジットか、どちらでも構わないけど、どちらにしたって面白いことできるんじゃないか。日本のスタートアップとして初めてGoogleやFacebookに、しっかりエグジットできる事例が作れるんじゃないのかという話をしたんです。彼はその場で「やる」と言いました。

西村:「4000万円を使って社会実装を試したいんです」と大学に言っても、どうしようもないですもんね。

村田:大企業の新規事業も似たような構図があります。スタートアップがシリーズAで集める金額より、ずっと小さい予算しか割り当てられませんよね。

西村:権限もなかったりします。

村田:だから総合商社や総合電機メーカーで研究開発をやって行くのがいいのか?という問いはありますよね。自分の作りたいものとか自己実現のために資金を集めたり、チームを集めたりするわけですよね。そのとき人を寄越せとか金を寄越せとかという社内調整や社内政治ばかりやって時間を浪費するのは、もったいなくないですか、という。スタートアップで資金調達をして事業を起こしにいって、自分の手で環境を作っていくことができるはずなんです。ここ数年くらいで、大企業出身者や研究者でスタートアップに来ようとしている人と会う機会が増えてきているんですが、そういう人たちにこの話をすると、すごく反応がいい。

西村:リスクの考え方も変わってきていますか?

村田:リスクを取りに行くべきだと、すばやく判断する人が増えてきています。医師や弁護士、戦略コンサルファームの人、あるいは社会的地位がある人たちは、特にそうですね。資格や実績がある人は、またそこに戻れるというのがあるから、さっさと意思決定してスタートアップを立ち上げに行くパターンが増えています。やっぱり市場環境が良くなって大きな予算が自分の手で作りやすくなったと感じているからだと思います。

西村:世界的にみれば、もっとも優秀な層から起業して、その次に優秀な層が戦略コンサルなどのプロフェッショナルファームや有名大企業に就職すると言われたりします。日本も変わってきたのかもしれませんね。成功事例が増え、エンジェル投資家が増え、何よりスタートアップすることのアップサイドが広く知られてくれば、もっともっと日本のスタートアップの勢いも増すのかなと改めて思いました。本日は長時間のインタビューありがとうございました!

取材・編集:西村賢 撮影:矢野拓実

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