コラム

21歳で起業、創業企業を退任……挫折を味わった男が挑む、セールス領域の革新

2019-01-10
STARTUPS JOURNAL編集部
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STARTUPS JOURNAL編集部

「失敗は、かなり沢山してきた方だと思いますよ」気さくな笑顔でそう語るのは、ベルフェイス株式会社(以下、ベルフェイス)中島一明氏(以下、中島氏)だ。15歳で起業を志し、高校を中退。その後世界一周をしながら考えた200枚のビジネスプランを基に、21歳で起業家としてのキャリアをスタート。創業した会社を退任したが、間髪入れず二度目の起業をし、三年経った現在、事業は順調に成長を遂げている。多くの挫折を経験しながらも、ひたすら前を向いて歩みを進めてきた中島氏のストーリーを紹介しよう。

15歳で起業を志し、高校を中退。世界一周しながらビジネスプランを練る

中島一明(なかじま かずあき)—ベルフェイス株式会社 代表取締役1985年 兵庫県尼崎市生まれ、福岡育ち。起業を志し高校を一年の一学期で退学し、15歳で土木会社に就職。19歳で世界一周をしながら200枚のビジネスプランを作成。21歳で起業し、「社長.tv(ティービー)」という中小企業経営者を動画で紹介する広告メディアを展開。2015年4月に同社を退任しベルフェイスを設立、現在に至る。

父親はサラリーマン、母親は専業主婦。中島氏は、いわゆる”普通”の家庭で育った、ごく普通の少年だった。少しだけ周りと違っていたのは、ビジネス書や哲学書を読むのが好きだったということだ。

中島「ビジネス書や哲学書を読むようになったきっかけは、姉かもしれません。姉は障がいを持っていて、家族みんなで日常的に姉のトレーニングを支えるような環境でした。 懸命にトレーニングに取り組む姉の姿を見るうちに『普通に生きていけるだけで幸運なこと』『人生は頑張らないといけないものだ』という想いを持つようになりました」

せっかくならこの幸運を活かして、人生をかけて取り組めるものを見つけたい。でも、何をすれば……? そんな気持ちから、本を読みあさるようになったが、答えを見つけられないまま、地元福岡の高校に進学したという。当時、投資家や起業家など、会社で働く以外の選択肢を提唱するようなビジネス書が流行っていたこともあり、会社員以外の将来の選択肢を考えるようになっていった。

中島「将来について考えたときに、自分でビジネスを立ち上げて名を馳せる、というのはかっこいいなと、起業に純粋な憧れを抱いていました。その他大勢は嫌だ、自分は特別でありたい……。男としてのロマンのようなものを求める気持ちもあり、15歳のときには『将来は起業家になろう』と決めていました」

起業への想いは強く、周囲に流され、なんとなく入学した高校で、学業に時間を費やすことに意味を見出せなくなった中島氏。そして、両親や教師を説得し、わずか3ヶ月で高校を自主退学。未成年での起業の場合、親に保証人になってもらう必要があり、銀行からの借り入れもハードルが高い。また社会人経験もなかったことから、20歳になるまではいろいろな経験を積もうと考えた。

土木会社で正社員として二年間働いた後、アルバイトで色々な仕事を転々としながら、キックボクシングやダイビング、バイクで九州横断など、趣味にも打ち込み充実した10代を送る。

中島「起業のことは頭の片隅にずっとありましたが、15歳からすると20歳は遠い未来のような感覚で、とにかくいろんな経験をしようと、心の赴くままに行動していました。そして19歳のとき、ふとした瞬間に『もうすぐ起業しようと考えていた年齢になる』と思いました」

そろそろ具体的なビジネスを考えようと思ったとき、ソフトバンク社長がアメリカ留学中に1日1つ特許のアイデアを考え続けた、というエピソードを知り、海外でビジネスプランを練ることを思い立つ。

中島「家にこもって考えるよりもインスピレーションが湧きそうだし、せっかくビジネスをやるなら夢は大きく、グローバル展開も視野に入れたいから、若いうちに世界を見ておくのもいいかもしれない、と思いました。まったく同じではつまらないから、自分は世界一周しながら1日1案事業計画書を作ろうと決め、すぐに行動に移しました」

7〜8ヶ月かけて30カ国をめぐりながら毎日事業計画書を書き続け、200以上のビジネスプランを考え、20歳のときに日本に帰国。21歳のとき、ついに一社目の起業に踏み切った。

趣味で始めた社長インタビューが事業化するも、29歳で退任を余儀なくされる

最初に着手した事業は、携帯電話向けのコンテンツ制作。当時はガラケー全盛の時代で、1曲100円で着メロが売れるなら、怖い話も売れるのではと考え、携帯電話向けの怖い話コンテンツをつくり、ワンコインで販売しようと考えた。

中島「自分で怖い話を書き溜めてみたり、心霊スポットに創業メンバー全員で足を運んで、人はどんな時に恐怖を感じるのかを真剣に考えてみたりしながら、4ヶ月かけて実際にコンテンツをつくりました。意気揚々と携帯キャリア各社に売り込みに行きましたが『怖い話のニーズはない』と一瞬で断られてしまいました」

そのあともいくつもビジネスを試してみるものの、売り上げにはつながらず、22歳の頃には、消費者金融で借り入れをして、社員に給料を払うような状態だった。

中島「15歳から起業を志して6年間も時間があったのに、自分は何をしていたんだろう……と、情けないような悔しいような、なんとも言えない気持ちでした。このままではいけないと思い、解決の糸口を探すために、経営者の方に話を聞きに行くようになったんです。 途中から、せっかくなら聞いた話をほかの人にもシェアしようと思い、サイトを作ってインタビュー動画をアップするようにしたところ、徐々に掲載依頼をいただくようになり、そこから事業として展開していくことになりました」

初めは福岡限定だったが、軌道に乗り全国へと事業を展開。各地に代理店を設けるもうまくいかず、福岡からのインサイドセールスに力を入れたところ、300社だった掲載企業が、2年間で6,000社にまで増加した。社員も100人規模で採用し、港区にオフィスも構え、会社は急拡大していった。しかし翌年、資金繰りが一気に悪化。人員整理やコスト削減に奔走することになり、資金調達のために株の大半を譲渡したことで、オーナーシップも失った。

中島「三ヶ月前まではみんなの前でキラキラとビジョンを語っていたのに、ある朝社員を集めて、財務状況の話をして、自主退職を募って……なかなか辛い経験でしたね。前年には新卒採用もしていて、彼らの親御さんともお会いしていたので、その顔も頭をよぎりました」

なんとか会社を立て直したものの、経営方針に関する意見が株主と合わず、29歳の時に代表取締役を解任される。

中島「正直、その時はやるせない思いもありました。でも、良い悪いではなく経営の意思決定の話ですし、その前にオーナーシップを手放す判断をしたのも自分だから、仕方ないと気持ちを切り替えました」

そして、次の事業として着目したのが、インサイドセールスだった。

「こんな機能が欲しかった」を詰め込んだプロダクトで二度目の起業

福岡から全国へインサイドセールスをしていた時に、国内外のあらゆるテレビ会議システムを利用してみたものの、営業の現場のニーズに合うものがない、という課題感を感じていた。

中島「インサイドセールスの知見や、『こんな機能があったらいいのに』というアイデアは沢山ありました。それを詰め込んで、かゆいところに手が届くような、本当の意味で使えるサービスを作れば、多くの人に役立つものになるんじゃないか。そんな想いから、ベルフェイスを作りました」

ベルフェイスは、電話口でクライアントに「ベルフェイス」と検索してもらい、出てきたページで「接続ナンバーを発行」というボタンを相手に押していただく。発行されたナンバーを営業担当者が自身のシステムに打ち込むと、すぐにクライアントとつながり、商談を開始できる。

中島「既存のテレビ会議システムだと、インストールが必要だったり、ブラウザが限定されていたりと、利用する際の相手方の負担が大きく、営業の障壁になってしまうケースが多かったんです。ベルフェイスであれば、電話ができて、ネットで検索したことのある人なら、誰でも使うことができます」

また、特徴的な機能のひとつとして「セールスログ」がある。どの資料をどのくらいの時間をかけて説明したのかが秒単位で記録される。また、すべての商談が録画・録音されていて、商談終了後にマネージャーにメールで送られてくる。

中島「これまでの電話と訪問が中心の営業スタイルだと、営業マンがどんな営業をしているのかは、ブラックボックス状態でした。セールスログによって、優秀な営業マンのスキルがデータとして可視化できますし、商談の内容を上長が把握できることによって、より教育もしやすくなります」

現場のニーズを汲んだプロダクトは多くの営業マンの心をつかみ、リリース3年で800社もの企業に導入されている。

よだれが出るような、本能を刺激するサービスを作れているか?

中島氏に成功する事業のポイントを聞いてみると、「シンプルで、本能に根ざしたもの」という答えが返ってきた。

中島「価値を30秒ほどでパッと説明できるような、シンプルでわかりやすいものだといいと思います。ベルフェイスで言うと、『登録やインストール不要で簡単につながって、リモートで営業できます』と説明していますが、これなら聞いた人がイメージしやすいですよね。 本能に根ざしたものというのは、僕はよく『よだれが出るようなもの』と表現するんですが、『それが欲しかった!』と琴線に触れるようなもの、というイメージです。 あったら便利だけどなくてもいいね、と言われてしまうようなものは、ビジネスプランとして弱いかなと思います」

最後に、思い描くビジョンを叶えるために大切なことを聞いた。

中島「スタートアップはとにかく速度が大事なので、いつまでにこうするという目標を達成する速度を落とさないために、常に先を見据えた意思決定をしています。 たとえば、弊社はグローバル展開を目指していますが、そのためのステップの一つとして世界中に拠点を構えるコワーキングスペース『WeWork』へ移転しました。来月は実際にカナダに行って、現地のWeWorkで働きながらビジネスパートナー探しをしたり、いい人材がいたらその場で採用してこようと思っています。ビジョンを語るのは簡単なことですが、口先だけでなく、実現するための意思決定とそれに紐づく行動を起こし続けたいと思っています」

行動を起こせば、その分失敗の数も増える。失敗するのは恥ずかしいし、怖い。そうして、一歩踏み出すことを諦めてしまう人は少なくないだろう。だが、行動を起こさないことには何も始まらない。15歳で「起業家になる」と高校を辞め、19歳で「グローバル展開できるようなビジネスを」と言いながらバックパッカーとして世界をめぐる若者を、冷ややかな目で見ていた人もいたかもしれない。しかし、彼は夢を現実のものとした。起業家になり、世界に通用するプロダクトをつくりあげた今、グローバル展開は決して夢物語ではなく、現実的な「目標」となっている。失敗は、夢を叶えるための通過点にすぎない。だから、恐れず突き進め。中島氏の生き方から、そんなメッセージを感じた。

執筆:中村英里取材・編集:Brightlogg,inc.撮影:小池大介

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